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photo credit: ROC Flag flying over Hsinchu Air Base via photopin(license)
(イメージです。)


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:2015/05/03(日) 08:04:38.23 ID:
〝強制〟は歴史の歪曲 動員の生徒前に嗚咽、内地と同じ教育
 
 昭和20(1945)年、日本統治下の台湾でも米軍爆撃機B29の空襲が激しさを増し、学生も次々に軍に動員された。

「戦局は非常に厳しくなり、軍は諸君の意気と若さに期待するところ甚だ大である」
 
 同年4月、台湾南部の軍事都市、高雄の州立工業学校の校庭に、200人余りの生徒が集められた。台湾人と内地(日本本土)から来た日本人がおよそ半数ずつ。化学科3年で台湾人の楊應吟氏(88)=当時(18)=もいた。
 
 曇り空だった。内地から赴任した宮本清利校長の訓話が始まった。楊氏ら3年生は、日本軍の南進に備えた技術人材の育成を目的に開校した高雄工業の第1期生だ。そんな大切な教え子に向けた校長の声は、次第に震え始めた。
 
 「学業半ばの諸君を戦闘に送り出すのは不本意だけれども…。国のため、頑張ってください。そして風邪をひかないように…。身体を大事にしてください…」
 
 必死に抑えようとしたが、ついには嗚咽(おえつ)に変わった。慈父がわが子を思いやるような言葉に、楊氏は「本当の先生とは、宮本先生のような方のことだ」と胸が詰まる思いだった。
 
 楊氏はその日から陸軍二等兵になり、米軍の上陸に備えて高雄を警備する部隊に配属された。地面の穴に身を潜め、敵の戦車が近づいてきたら飛び出して爆雷を投じる。命懸けの任務だ。「自分たちが故郷を守らなければ他に誰が守るんだ」と奮い立った。
 
 軍隊生活中も、宮本校長の言葉が思い出された。後にわかったことだが、宮本校長は、軍部から「高雄工業からの志願兵が少ない」となじられたときも「技術奉公も国のためだ」とはね返したという。
 
 結局、米軍は台湾ではなく沖縄に上陸した。多くの学徒兵が沖縄で戦死した。
 
 戦うことなく生き延びた楊氏は、省立工学院(現・成功大学)を卒業し、工業研究所でコンクリートの非破壊検査などの技師として働いた。現在は台北市内で鍼灸(しんきゅう)院を営んでいる。
 
 日本統治下の台湾の学校では、台湾人は生徒の2割程度なのが一般的だった。しかし、高雄工業は宮本校長の強い意向で、栄えある1期生として日本人と台湾人を半数ずつ入学させた。
 
 教育内容も充実していた。内地から化学や国語(日本語)の優秀な研究者を招いた。宮本氏自身、東京工業大出身の優秀な研究者だった。
 
 専門教育だけでなく、日本国民としての素養も身に付けた。教育勅語(ちょくご)を暗唱した。父母の恩を忘れずに親孝行を実践し、兄弟と仲良くし、国を大切にしなさいという教えは、今でも素晴らしいと思っている。
 
 戦局悪化に伴い奉仕作業に駆り出される機会が増えたため、勉学に集中できたのは1年余りに過ぎなかった。それでも多くを学んだ。楊氏の印象に残っているのは、日本人教師は責任感が強く熱心に授業をしてくれたことだ。
 
 日本教育は、礼儀や勤勉、正直といった「日本精神」を教えてくれた。放課後の教室の掃除当番も全員でした。サボれば日本人でも台湾人でも関係なく、叱りつけられた。そこに、人種差別は感じなかった。みな同じ日本の国民だったし、楊は日本国民であることが誇らしかった。

http://www.sankei.com/region/news/150503/rgn1505030053-n1.html 続く