パチンコ 

1
:2014/03/03(月) 00:20:30.54 ID:
1951年、京都に初めてパチンコ店をオープンさせた人物は、在日韓国人の鄭詔文(チョン・ジョムン)氏だった。15年にわたりパチンコで大金を稼いだ鄭氏は、日本の「国民的作家」司馬遼太郎氏を訪ねた。日本の中の韓国文化に関する雑誌の創刊について相談するためだった。

そのときのことを回想し、司馬氏が残した文章がある。
「私は心の中で『パチンコ屋のおやじが出す雑誌なのだから、うまくいって3号出るかどうか』と思った」

 司馬氏の見当は外れた。雑誌『日本のなかの朝鮮文化』は13年続き、50号まで発行された。その当時、韓半島(朝鮮半島)から渡ってきた人や文化が日本の古代国家出発に決定的な影響を及ぼしたという話は、口に出すこともできなかった。しかし鄭詔文氏は、日本全国をくまなく探訪し、文化伝来の経路を裏付ける実物の証拠を探し出した。鄭氏がそれらの証拠を突き出すと、多くの日本人はうなずいた。

 鄭詔文氏は、6歳のときに家族と共に日本に渡った。小学校は3年通っただけで中退し、織物工場の職工、人力車の車夫、埠頭(ふとう)・土木工事の労働者に至るまで、きつい仕事を手当たり次第にやった。貧困と差別の中で、いつも「私はなぜ朝鮮人に生まれたのか」と嘆いていた。

どうにか食べていけるようになった1955年、鄭氏は京都の骨董(こっとう)品店で不思議なつぼと出会った。朝鮮白磁だった。鄭氏は、白磁の絶妙な色合いと美しい線のとりこになった。
当時としては大金の50万円を月賦で支払い、つぼを手に入れた。

 鄭詔文氏にとって恨みがましいものだった朝鮮文化は、それ以来、誇らしいものになった。
鄭氏は、神戸の田んぼに高麗の石塔が転がっているのを見て、誰も手を付けないように田んぼを丸ごと買い取った。鄭氏は「日本人と本当に向き合うということは、金で成功することではなく、まさにこういうことだと思った」と語った。

およそ30年かけて汗と涙で買い集めた韓国美術品の数は1700点。鄭氏は、自分が探し集めた祖国の誇りを、同胞たちと分かち合おうと考えた。そこで88年、京都に建てたのが高麗美術館だ。その4カ月後、鄭詔文氏は世を去った。

 ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンの大英博物館には、韓国の展示室がある。
しかし海外で韓国人が独自に建てた美術館となると、高麗美術館しかない。

この美術館が最近、運営上の困難に直面しているという。日本でパチンコ事業がうまくいかず、美術館職員への給与支払いが苦しくなり、特別展も減らさなければならないというありさまだ。一時は、京都市に運営を任せる案まで検討したという。

海外に流出した文化財を韓国に取り戻すことも重要だが、現地に根付かせて「文化使節」として活用することも必要だ。国もできなかったことをやり遂げた鄭詔文氏の遺産が輝き続けるように、支援する方法はないのだろうか。本当に残念だ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140302-00000158-chosun-kr