(イメージです。)
 
1新種のホケモン ★2020/08/21(金)14:38:04.12ID:CAP_USER.net[1/3]
2018年4月10日火曜日。その人が「命をかけた」と表現する青瓦台前の抗議集会が始まった。初めての集会を火曜日に決めたのは、韓日協定が締結された日が火曜日だったからだ。デモ用に改造したトラックに上った彼がマイクを握った。

「日帝強制動員被害国民は号泣している!韓日協定請求権資金無償3億ドルは私たちの父の命の代償だ!政府は恨(ハン)が極に達した被害国民と遺族たちに3億ドルを現在の価値に換算し、今すぐ返還せよ!」

一日も欠かさず、大雨が降ろうと雪が降ろうと、毎週火曜日午前11時、青瓦台(チョ.ンワデ、大統領府)前の集会を99回まで続けてきた彼は強制動員被害者・故キム・パンゲさんの息子キム・インソンさん(80)だ。

「私は弁が立つ人間ではありません。ですがデモが始まれば何時間でも言葉が出てきます。被害英霊が私を見守ってくれているという感じがします。ただの一度も、天気のせいでデモを中断したことがありません。だから言うのです。『見よ、英霊たちが助けてくださっているではないか』と」

あと一週間で100回を達成するという時点だった。新型コロナウイルス(新型肺炎)が猛威をふるい、都心集会禁止が下された。集会は無期限延期となるよりほかなかった。

「私の父は1942年6月に連れて行かれました。解放を迎えても便りがなかったのでみんな死んだと思っていたそうです。パプアニューギニアまで軍属として連れて行かれた父は47年に帰ってきます。密林の中でどうにか命をつないで日本に入り、貨物船に乗って韓国に密航をしましたが、農産物を積んできた船が波風によって座礁すると、3日間を海に漂うカボチャを食べて生き延びたと聞きました」

帰ってきた父親は1949年警察に入り、順天(スンチョ.ン)警察署で最初の服務を始める。しかし、韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発し、智異山(チリサン)白鵝山(ペクアサン)の戦いで戦死し、短い警察生活を閉じた。1951年9月21日、キム・インソンさんが11歳の時だった。

父親がいないこともわびしかったが、どこへ行っても「父なし子」と言われながら大きくなければならなかった。それだけは耐えることができず、性格が乱暴になり、荒んだ青少年期を送った17歳、今度は母親が亡くなる。祖父まで長男を失った火病で徐々に体を蝕み亡くなると、家勢が傾き始める。彼は2人の弟を世話しなければならない21歳の青年になっていた。

「あらゆる辛酸をなめました。母は生まれつき淡々とした性格でしたが、父は本当に優しかった。戻ってきた後、短い数年間、父にかわいがってもらいましたが…」

(続く)

中央日報日本語版 8/21(金) 14:09
https://news.yahoo.co.jp/articles/fce86a585aa6b22c7cef0a33567a9fdc09387b4d

キム・インソンさんは新型コロナウイルス(新型肺炎)で都心の集会が禁止される前まで青瓦台前で99回の火曜集会を開いた。韓日協定が締結された日が火曜日ということで火曜集会に決めた。父親を強制連行した日本も、韓日協定の時に受け取った日本の金を強制動員被害者に分けない政府も、その金を受け取って栄えた企業も、全て彼の闘争対象だ。光復(解放)75周年前日の14日、青瓦台前の噴水台で1人デモをするキム・インソンさん。イム・ヒョンドン記者


故キム・パンゲさんは日帝に軍属としてパプアニューギニアまで連れていかれた強制動員被害者だ。解放後、2年過ぎた1947年になってようやく九死に一生を得て生きて帰ってきて、警察に身を投じた。警察の制服を着ている生前のキム・パンゲさん。イム・ヒョンドン記者