シャープ 
(イメージです。)


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:2014/11/28(金) 23:25:13.29 ID:
シャープの2014年9月中間期の最終損益は47億円。わずかな黒字ではあるが、4期ぶりに水面に浮上した。その背景にあるのは中小型パネルの好調だ。取引開始から日の浅い新興の中国メーカー向けのパネルが急伸。下期も、さらに伸びる見通しで、通期黒字化に向けてまい進しているところだ。

この躍進には、実は「シャープらしさ」がある。中国の新興メーカーとは、小米科技(シャオミ)をはじめとする創業から日の浅いベンチャー企業ばかり。本当に伸びるかどうかわからない地点から取引を開始したからこそ、のちの果実がある。同じことは、かつてもあった。

目の付け所がシャープ

「孫(正義)君を初めて知ったのは米国です。大学でコンピュータやパソコンの勉強会をやっていた彼に、偶然会ったんですわ。熱心な学生で、すぐに親しくなりました。そんなとき、テキサス・インスツルメンツが、翻訳機を出したんです。次の時代はこれや!と感じた。孫君もそうだったそうです。それからしばらくしてからです。技術本部長兼中央研究所長をしていた私の所へ、孫君のお父さんが公衆電話から連絡してきて「息子と一緒に会いたいと。翻訳ソフトを買ってくれないかとのことでした」

2年前の週刊東洋経済のインタビューで、こう語ったのは佐々木正元副社長。シャープは孫氏から、翻訳ソフトを1億円で買い取った。果敢に新規取引先を開拓していく"目の付け所"こそが、シャープの強みといえるだろう。

次ページ以降、そんな全盛期を支えた佐々木氏へのインタビューを再掲する。グローバル技術経営の最前線を歩んだ佐々木氏だからこそ語れるストーリーは、「日本ものづくりの全盛期」を知らない若手ビジネスパーソンにも、大いに参考になるはずだ。

(略)

<インタビュー3>?私とサムスンの李さんとの和解

シャープと韓国サムスンの関係は長きにわたります。サムスンは商社から始まって、電器産業に進出したが、半導体の開発で行き詰まった。それで、李健熙さん(現会長)がわざわざ訪ねてこられた。1970年ごろのことです。

当時、日韓定期閣僚会議が始まり、両国間で提携の機運が高まっていました。ところが、日本電気の小林(宏治・元会長)は、「韓国は技術を盗んでいく」と警戒感をあらわにしていた。
困った李さんが、「何とか小林さんを納得させてほしい」と。そこで駐日韓国大使と小林さん、李さん、私とで食事する機会を作ったんです。その後、私以外の3人でゴルフに行ったら、小林さん機嫌直しちゃったらしいんだ(笑)。

それ以降、李さんが頼りにしてこられるんです。半導体の開発にしても、「佐々木さん、辞めてこっちへ来ませんか。韓国籍にならんか」とまで言う(笑)。じゃあ、僕がシャープを説得するから、頭を下げて技術を教えてくださいと言ってくれ、と。数年間、4ビットマイコンの製造技術の提携をしました。

サムスンが何かの記念式をするときは軍隊式でしたね。社員が第1連隊、第2連隊……の順で並ぶ。第1連隊って、第1工場のことですよ。その根性で成果を上げていった。

そうなると欲が出る。「今度は液晶を教えてくれ」と言ってきた。僕は断った。「依頼心はサムスンを殺す」と。李さんは納得してくれたが、その部下になると、そうはいかない。盗んででもやるんだ。フライデーフライトでうちのキーマンを韓国に連れていく。連中は土日に働いて日曜夜、サンデーフライトで帰ってくる。シャープは最後には技術幹部のパスポートを全部預かっちゃった。

九十にして今度は恩に報いる

そのときも、私個人は、「与えられるものどんどん与えて、感謝してくれればいい」と思っていた。少なくともシャープの味方にはなるだろうとね。ところが、李さんがトップを離れた時期に、サムスンがシャープを相手に特許訴訟を起こしたんです。あれはサムスンが情けなかった。

李さんは、シャープに感謝しとるからね。李さんがトップに復帰した後、直接話をして、和解しました。

孔子は73歳で死んでいますから、『論語』に「七十にして矩(のり)をこえず」の次はありません。97歳の私が言うならば、「八十にして恩を知る」でしょうか。人間は自分一人でなく、いろんな人のおかげで生きとるんです。そして、「九十にして今度は恩に報いる」。そうすれば百で人生を終えるとき、幸福でいられるはずです。

http://toyokeizai.net/articles/-/54554

>>2以降に続く)