1:2014/10/21(火) 21:09:53.39 ID:
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▲独立門周辺は広い公園で町内住民たちの憩いの場でもある。
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▲独立門の前に中国使節らを迎えた迎恩門(写真の下)の礎が立っている。
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▲売国奴イ・ワンヨンが書いたという独立門の表札板文字。

ソウル市西大門区の独立門公園には名所になった西大門刑務所歴史館以外に、殉国烈士追悼塔、3・1独立宣言記念塔、徐載弼(ソ・ジェピル)銅像などがある。その中でパリの凱旋門に似たエキゾチックな姿で目を引くのが独立門(史跡第32号)だ。

朝鮮末期、甲午改革(1894~1896)以後、自主独立の意志を強調するため独立協会がたてた19世紀末の自主民権、自強運動の記念物だ。「独立」という名前のため、ちょっと見れば日本に抵抗するため建てられた門と考えやすいが、事実は反日の象徴ではなく反清の象徴物だ。朝鮮がもはや清国の属国ではなく独立した自主国家であることを明らかにするためにたてたものだ。

ソ・ジェピル率いる独立協会主導の下、高宗(コジョン)の同意を得て進められた。フランスの凱旋門をモデルとしてまねて作った最初の洋式建物で、愛国の志士や国民の幅広い支持を受けた。

朝鮮の「独立」を望んだ日帝の黒い下心

独立門はその趣旨のとおり本来あった位置に立っていた「迎恩門」を壊して立てられた。迎恩門は数百年にわたった朝鮮と中国の従属関係を象徴する建築物だった。迎恩門は「恩恵深い彼らを迎える門」という意味の門だ。ここで恩恵深い彼らというのは中国使節(当時は清国)をさす。

朝鮮が永く取った中国に対する事大(小さい国が大きな国を仕えること)の象徴、迎恩門を壊して独立門を作れたのは当時、江華島(カンファド)に攻め込んで強制的に条約を結んだ日本が清国との戦争で勝利した時代的状況と続く。日清戦争で日本が勝利後、下関条約で朝鮮の独立が国際法上確定した後、独立門建設が始まった。1896年に着工し1897年11月に完工した。

日本が日清戦争勝利後、清国と結んだ下関条約第1条はこうだ。「清国は朝鮮国が完全な自主独立国であることを認める。従って、自主独立を損害するような清国に対する朝鮮国の貢献・典礼などは将来に完全に廃止する。」日本は単に朝鮮に対する清国の宗主国の地位を無力化し、何の干渉もなしに朝鮮を飲み込むために朝鮮の独立を明示した。

このような背景により、独立門は「独立」という名称を持ちながら、日帝強制支配下でも無事に存続した。独立門は事大の象徴を壊して作ったもう一つの植民支配の象徴になった。そのような独立門の運命は表札板の文字ですでに運命づけられていたのかもしれない。
(中略:扁額の文字は「売国奴」李完用(イ・ワンヨン)が書いたと紹介)

日帝強制占領期は独立運動、独立活動家など「独立」の二文字が入るだけで巡査らが目をむいてすごんだ時期だった。ところがそのような時期にも独立門は「独立」の二字を付けて生き残った。弾圧どころか逆に当局の保護と配慮を受けた。日本は抗日活動家らを西大門監獄に閉じ込めて拷問弾圧しながら、すぐそばの独立門には触らず、かえって古跡第58号に指定して保護した。

ソース:オーマイニュース(韓国語) 日帝時代にも生き残った独立門、このような事情のためだ
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002045016