1: ねこ名無し ★@\(^o^)/ 2017/08/11 14:30:07.46 ID:CAP_USER.net
「1945年8月27日、釜山(プサン)港に下りて太極旗を初めて見た。その時、母にとても会いたかった。釜山から故郷の大邱(テグ)まで7時間汽車に乗ったが、その時間がどれほど長かったのか…故郷の家の前に着いたが、母が裸足で出てきた。

2人は抱いて号泣した。父は後から『私も知らずに逃げては苦労ばかりしてきたんだな」とおっしゃった」。白髪のイ・イヌさん(92)は72年前、両親との対面場面を思い浮かべながら再び涙を流した。彼は日帝徴用被害者だ。1944年、サハリンを経て「軍艦島」と呼ばれる端島に強制徴用された。

9日午後、大邱の自宅で会ったイさんは72年前に生き返ってきた瞬間を思い浮かべた。彼は慶北慶山郡(キョンブク・キョンサングン)安心面司福洞(アンシンミョン・サボクドン)41番地(現在の大邱東区)で7兄弟姉妹の長男として生まれた。父は貧しい農民だった。3年間小学校に通ったのが学歴の全部だった18歳の少年は貧乏な環境にうんざりした。

「村役場を退職した公務員たちが報国隊(日帝が朝鮮人学生、女性と農村労働力を動員するために1938年組織した団体)を募集した。工場で働けば家に仕送りをすることができると。その時は家計を支えたいと思っていた。40人ぐらいが集まって一緒に列車に乗って釜山に向かった。私のように皆貧しい人々だった。日本の三菱工場で働くと思って…」

1944年5月、イさんは釜山で貨物船に乗った。400人以上の人々が床に座って吐きながら波を耐えた。7日間船に乗って到着したところは日本本土ではなかった。サハリン。夏から冬までサハリン炭鉱で働いた。

大邱で育った彼が零下40度の寒さを耐えるのは簡単ではなかったが、それは悪夢の始まりに過ぎなかった。

吹雪が吹いていた日、イさんはわけも分からないまま再び貨物船に乗せられた。どこへ行くのか誰も教えてくれなかった。軍艦島に向かう船だった。「船からで島を見たが、コンクリート塀が島を囲んで7階ぐらいになる建物2棟がそびえ立っていた」。

軍艦島は野球場2つの大きさの島(南北約480メートル、東西約160メートル)で長崎港から南西に約18キロメートル離れたところにある。19世紀後半、三菱グループはここを炭鉱として開発し、大きい収益を上げた。

軍艦島で6人が一部屋を使った。3人ずつ2交代で12時間ずつ働いて寝た。ふんどし姿で装備を手にして海底1000メートルに石炭を掘りに入った。「中国人と働いたが、言葉が通じないから進み具合が遅くなり、日本人監督官は殴り続けた」。

事故にあった同僚は遺体で坑道を出て行った。死を目撃するたびに母が思い出した。「海の彼方に陸地が見えた。着きそうだった。それでは、どこか私の故郷があるだろうと。星はどこにでも同じだから、夜に星を見て故郷や親を思い出したり…」。

肉体労働を強いられた韓国人が死ねば、軍艦島の隣にある小さい島の火葬場で遺体を焼いた。遺体が焼くにおいが島を覆った。

「月給はその時の金で220ウォン。整備費・洗濯費・食費などを除けば150ウォンだったよ。韓国でうどん一杯が5銭、日給が35銭だったから少ない金額ではなかった。だが、それを5年満期の債券でもらった。結局、何も受けられなかった」

1945年7月、日本人監督官はイさんに令状を渡した。旧日本軍として徴集されて軍艦島を離れた。広島から汽車で1時間ぐらい行って呉に下りた。一日も欠かさず爆弾を持って米軍装甲車に自爆する訓練を受けた。

約40日が過ぎた8月15日昼休み、奇跡がやってきた。部隊のラジオで天皇の降参放送を聞いた。

「2番目の原子爆弾が落ちたと聞いた時、『戦争が終わるかな。私も生きられるだろうか。それとも米軍装甲車が入ってくるから私は死ぬだろうか』など色んな気がした。ラジオで天皇が降参宣言をした時『あ、生きたんだな』と思った」。

http://japanese.joins.com/article/261/232261.htm

>>2以降に続く)


軍艦島徴用生存者であるイ・イヌさんが9日、大邱の自宅で地下1000メートルの坑道に入って石炭を掘っていた当時の状況を説明している。