1:2014/05/17(土) 20:44:47.71 ID:
[ハンギョレ創刊26周年特集、浮上する環東海] 万景峰号が行き来した北送事業の現場 新潟港

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専門家寄稿/北-日特殊関係の現場  パク・ソンジュン韓国海洋水産開発院専門研究員
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 日本 新潟は環東海経済圏のもう一つの一員、北朝鮮と日本の特殊な関係をよく見せる所だ。 第2次大戦敗戦後、日本が‘人道主義’という旗の下に将来日本経済にとって負担になることが明らかな在日同胞を北朝鮮に送還するために行った、いわゆる‘在日同胞北送事業’の日本側基点がまさに新潟だ。 以後2006年7月に北核問題と拉致問題で北-日関係が凍りついて元山と新潟を行き来した万景峰号航路が途切れる時まで、冷戦時代はもちろん脱冷戦時代を通して北-日の人的往来と物資交流の代表的な日本国内拠点の役割をした所も新潟であった。

 在日同胞北送船 万景峰(マンギョンボン)92号が処女航海を行ってからちょうど55年が流れた今日、新潟は今も北-日間葛藤と協力が浮沈する現場になっている。日本と北朝鮮とは拉致問題、ミサイル問題、北核問題などを巡りすでに10年にわたってもめ事を継続している。 日本が‘特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法’を公布して、北朝鮮の一部船舶の入港を禁止したのが10年前の2004年6月だ。

 2006年7月、北朝鮮が長距離ロケット試験を強行するや日本は万景峰(マンギョンボン)92号の新潟など日本国内への入港を禁止した。2007年以後、連続7年間、北朝鮮と日本の貿易額は公式に‘ゼロ’行進を続けている。ただし去る3,4月に北-日間公式、非公式接触を通じて北朝鮮が日本に‘万景峰92号’の日本国内港入港を要求したこと程度が小さい変化と言えば言うことができる。

1959年、新潟-清津(チョンジン)間、初の北送船

 日本は在日同胞北送プロジェクト推進のために、政府が直接表に立つ代わりに、日本赤十字社という‘代理人’を前に出して静かにことを推進した。 在日同胞送還のための隠密な動きは、1955年7月に日本赤十字社がジュネーブの国際赤十字社本社を訪問して‘在日朝鮮人は日本国内の少数民族ではない(すなわち日本国民ではない)、国際法下にある外国人」との主張から始めた。
  翌年1月末、日本の赤十字社代表は直接 新義州(シンウィジュ)を経由して平壌(ピョンヤン)に入り交渉を行った。 1959年12月、ついに新潟港から北朝鮮 清津(チョンジン)港を目的地にした初の北送船(当時はソ連の旅客船を動員)が出港することによって、日本の努力は最初の結実をおさめた。

 当時、北朝鮮に発つために新潟に集まった在日同胞は、東京はもちろん、京都、大阪、広島、山口、そして北に遠く北海道など日本全域に短くは1泊2日、長くて3・4日間、列車に乗って新潟に降り立った人々だ。 日本はこれらの在日同胞をひとまず新潟赤十字社に用意した臨時宿舎に数日間にわたり集団的に受け入れ、出港当日にバスに乗せて港に送った。

昔の面影をなくした‘ポドナム通り’(柳通り)

 新潟西港、ちょうどこのバスが通るところに、日本は在日同胞の北送を記念するためにヤナギを植え、後日この道を韓国語発音を日本式に書き写して‘ポドナム通り’と呼んだ。 追放に他ならない事業を‘人道主義’で包装するための日本政府のち密さは、このように細かいところにまで及んでいた。

 この間、新潟に残っていた北-日交渉史の物証も葛藤の歴史の中で一つ二つと消えている。 日本が作ったという柳通りは、現在新潟の代表的なランドマークとしてコンベンションセンターと展望台の機能を兼ねた朱鷺メッセ ビルの後方にあるが、この道の柳はすでに切られたり消えて、チラホラと残っているだけだ。

 道の片隅に新潟市が立てた由来説明表示板とこの表示板のすぐ脇に1959年に当時の朝鮮総連新潟県本部が立てた木の柱がポツンと立っているだけだ。過去に盛勢を享受したと思われる朝鮮総連新潟県本部事務室は、北-日関係が悪化した以後、事務室押収捜索など日本の相次ぐ制裁の影響で資金難に苦しめられ門を閉めた。古い建物はシャッターが下されたまま人跡が途絶えものさびしいばかりだ。

>>2以降へ続く)

ハンギョレ 2014.05.16 07:14
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17372.html