韓国 
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:2016/08/17(水) 15:44:20.63 ID:
光復71周年をむかえた。私たちにとっての光復は日帝によって国を奪われ植民地統治下から回復したことを意味し、本来あった国家が国権を失って取り戻したという意味で1910年、大韓帝国があったことを前提にこの単語が使われていることが分かる。

正確に言えば1910年8月22日、日帝強制併合後36年間、あらゆる迫害と収奪と侮辱を受けながら、さらに名前と言葉まで奪われ、国のない民族の悲しみと死ぬ思いをしながら耐えてきた。国内外で多くの愛国闘士らが国の独立のために戦って高貴な生命を塵芥として死んでいった。

第二次世界大戦で日帝が崩壊して1945年8月15日、日本天皇の無条件降伏による聨合軍の勝利で私たちの大韓民国が光復した。日本軍武装解除のために北緯38度線で南北が切られて北はソ連が、南側は米国が管轄することになった。米ソ理念対立でソ連は金日成(キム・イルソン)を手先にしたてて北朝鮮政権を強固にした一方、南は米国から帰国した独立運動家で愛国者の李承晩(イ・スンマン)博士が組織的に国を建てた。

イ・スンマン博士は1948年8月15日、大韓民国単独政府を樹立して初代大統領に選出された。もし大韓民国が単独政府を樹立していなければ、見かけの良い共産党の奴隷になり、金日成治下で沿海州から遠い中央アジアにディアスポラになって大韓民国は地球上にはなかっただろう。

結局、金日成は1950年6月25日、不法奇襲の南侵を敢行し、その途方もない代価を払って現在の北朝鮮同胞は飢餓と政治犯強制収用所で死につつあり、大韓民国は灰の中から漢江(ハンガン)の奇跡を成し遂げて世界7大富国の先進国へ跳躍した。

この富強・富国の基礎はイ・スンマン初代大統領の勇断がなければ不可能だっただろう。この様な偉大な建国大統領に光復71周年をむかえる今も銅像一つ建っていない。建国初代大統領の銅像がない国は世界で唯一、我が国しかない。

人には誰でも功と過がある。上手くないところは厳しく評価しても、一方、苦労でもその人を評価しなければならない。イ・スンマン大統領統治時代に確かに間違った事もたくさんある。不正選挙、四捨五入改憲、居昌(コチャン)良民虐殺、4.19等、それで彼は1960年4月26日、大統領の職からおりて1960年5月29日、また異国の地米国ハワイに亡命して1965年7月、そこの療養病院で落命した。

しかし、彼の政治的足跡は20世紀の偉大な政治家として歴史に記録されている。国を創建し、6.25韓国動乱(朝鮮戦争)が勃発するとすぐに国連軍を参戦させ、韓米防衛条約締結、反共捕虜釈放、そして日本が実際的に占有していた独島(ドクト、日本名:竹島)を大韓民国領土に編入して、平和線(李承晩ライン)を設置した勇断などイ大統領の政治哲学がなければ、できなかった仕事だ。

死んだ人はものが言えない。生きている人々が彼の功績と過ちを深く深く掘り下げて本当に光復して左傾勢力が打ち倒したイ・スンマン建国大統領の銅像を光化門(クァンファムン)通り、世宗大王(セジョンデワン)と李舜臣将軍の間にたてて真の光復を達成することを提言する。

<イ・ギョンジュ元6・25参戦有功者会会長>

ソース:韓国日報(韓国語) 光復節とイ・スンマン大統領
http://www.koreatimes.com/article/20160816/1005621
 
=管理人補足=
李 承晩(り・しょうばん、イ・スンマン 1875年3月26日 - 1965年7月19日);
朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫は全州李氏。号は「雩南」(ウナム、우남)。字は「承龍」(スンニョン、승룡)。
 
朝鮮の独立運動に併合前後から関わっていた経歴から、李承晩は日本を激しく嫌った。アメリカ滞在中には併合以前の李朝を「東洋の理想国家」であったと積極的に言論活動を展開し、これがハースト系新聞によって宣伝された日本=野蛮国論の一部となりアメリカが極東に政治介入する政策の根拠となった。また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものを抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。加えて権威主義政権として基盤の脆弱であったことや、保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件の様な失政から国民の目をそらすべく、今日でも李承晩の民族主義的政策による影響は根強く残っており、日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。
代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。

建国の父となるべき反共の大統領・李承晩は、生涯大統領を望み、次第に非民主的・権威主義的な性格を現し始めた。大統領であり続けるために憲法改正の強行や選挙への不正介入を繰り返し、国会での政敵や選挙の民主化・不正の真実を求める民衆を「容共的」「北のスパイ」「平和統一論を唱えた」「パルゲンイ(共産主義者の蔑称)」等と斬り捨て激しく弾圧した。しかし、最終的に彼を大統領の座・建国の父の座から追い落とすことになったのは、4・19学生革命での民衆の力であった。
 
1946年 2月 - 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任。
1948年(昭和23年)4月3日 - 済州島四・三事件反乱鎮圧。
1948年(昭和23年)8月13日 - 朝鮮半島南部単独で大韓民国建国。初代大統領に就任。
1948年(昭和23年)10月 - 連合国軍占領下の日本を非公式訪問(ダグラス・マッカーサーGHQ司令官などとの会談のため)。
1948年(昭和23年)10月27日 - 麗水・順天事件反乱鎮圧。
1948年(昭和23年)12月1日 - 国家保安法を制定。
1949年(昭和24年)6月5日 - 国民保導連盟を組織させる。
1949年(昭和24年)12月24日 - 聞慶虐殺事件。
1950年(昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争勃発。
1950年(昭和25年)6月 - 国民保導連盟の加盟者や収監中の政治犯など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺(保導連盟事件)。
1951年(昭和26年)1月 - 前線で戦闘中の将兵の物資を転売し着服(国民防衛軍事件)。
1952年(昭和27年)1月18日 - 海洋主権宣言。「平和線」、いわゆる李承晩ラインを設定する。
1952年(昭和27年)5月26日 - 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(釜山政治波動)。
1956年(昭和31年)5月15日 - 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。
1958年(昭和33年) - 進歩党党首の曺奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。
1959年(昭和34年) - 新潟日赤センター爆破未遂事件。
1960年(昭和35年) - 3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。
1960年(昭和35年)4月19日 - 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。
1965年(昭和40年)7月19日 - 亡命先のハワイにて90歳で客死。
 
wikiから抜粋:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%89%BF%E6%99%A9
 
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