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日本の植民支配の下に置かれていた20世紀始めの韓半島。占領軍だった日本は明成(ミョンソン)皇后を殺害して植民支配に抵抗する独立活動家らを弾圧した。男性は戦場や工事現場に強制的に引きずられて行き、女性たちは性奴隷に強制動員された。戦争捕虜に生体実験まで行った。よく知られた日帝の蛮行だ。

だが知られた内容は一部に過ぎない。韓国政府樹立後の韓日関係、第二次世界大戦後の国際情勢の影響でうやむやになった事件がある。特に日本が敗戦直後、韓国人を集団虐殺した事件はまともに照明されなかった。この事件は相変らず究明されないまま歴史の中で眠っている。日本海軍輸送船、浮島丸爆沈事件もその一つだ。

解放直後、数多くの朝鮮人を乗せて釜山(プサン)から出港したこの船は二日後、日本近隣の海岸で原因不明の沈没をした。最小524人(日本政府公式発表)から最大7000人余り(生存者証言)の犠牲者が発生した。大部分、解放の喜びと共になつかしい故郷を訪れた朝鮮人だった。この時、水葬された多くの魂は故郷の土地を踏むことができずに日本近海の干潟奥深いところに相変らず埋まっている。
(中略:浮島号事件の詳細と生存者の証言等)

日本はなぜ戦争が終わった状況で朝鮮人徴用者などを虐殺したのだろうか。軍事機密流出を防ぎ強制徴用の残酷性を隠すためにという主張が説得力を持っている。日本天皇の降参宣言に対する軍部の抗命という主張もある。実際に大湊周辺では一部の海軍が「海軍は戦争に負けなかった。ずっと戦わなければならない」というビラをばらいたという。

日本はこれまで浮島丸沈没事件は解放後の事件であるため、被害補償対象ではないという立場を守った。また、強制徴用者などに対する補償はすでに完了したと主張した。これまで生存者と遺族は1992~94年、三回にかけて日本政府の謝罪と損害賠償を請求する訴訟を起こした。2001年、裁判所は謝罪要求を棄却したが、韓国人15人に合計4500万円の慰謝料を支給するよう一部勝訴の判決を下した。安全輸送義務に違反したとのことだった。これさえも2003年、大阪高裁控訴審と2004年最高裁上告審で敗訴確定した。

解放の喜びを享受する間もなく、日本敗残兵らによって命を失った事件は浮島丸沈没だけではなかった。国家記録院は2012年、ロシア、サハリン国立文書保存所で入手したロシア政府の1946年報告書草案を公開した。この文書によれば、第二次世界大戦勃発以前、サハリン西北部エストル(現ウグレゴルスク市) 地域には朝鮮人1万229人が暮らしていたが、戦後5332人しか残っていなかった。韓人人口が50%ほど減少したのだ。

当時、ソ連側報告書には韓人人口の急激な減少の理由として避難・帰還と共に日本の集団虐殺を指定した。解放直前、ソ連国境と隣接しているカミシスカ地域には日本軍部隊が進駐していた。製紙工場と炭鉱が多い産業的要衝地でもあった。鉄道と道路、飛行場建設のために朝鮮人強制徴用者などがたくさん送られたところだった。しかし、日本の敗戦直前、ソ連軍の進撃が始まるとすぐに日本軍は後退して朝鮮人に対する報復が始まった。

「朝鮮人が暴動を起こしかねない。朝鮮人はソ連軍を助けるだろう。朝鮮人はソ連のスパイだ」という噂があっという間に広がった。すると1945年8月18日、日本憲兵らはカミシスカ警察署留置場に朝鮮人を追い詰めた後、火を付けた。外に出てくる人々は無差別的に銃を撃って射殺した。避難車両に朝鮮人を乗せた後、そのまま水死させたという証言、解放の喜びに万歳を叫んだ飛行場建設の朝鮮人労働者らを処刑したという証言もあった。このような行為は最近まで明らかになっていないが、当時の蛮行を詳細に記録したソ連軍とKGBの捜査資料が公開され天下にあらわれた。

8月20日から25日の間にある村の朝鮮人全体が虐殺されるぞっとする事件もあった。ロシア、サハリン西側の大きな港町のホムスク(マオカ)から内陸へ40キロ程離れたポザルスコエ(旧ミズホ)村のことだ。解放直後、ソ連軍兵士が到達した時、村にはそこまで避難出来なかった日本人と朝鮮人が残っていた。予備軍訓練に参加した在郷軍人会と村青年団所属日本人たちは義勇戦闘隊を結成した後、‘上部の指示’として朝鮮人27人を無差別殺害した。犠牲者の一部は冷凍倉庫に閉じ込められた後、凍死して海に投げられた。犠牲者には婦女子3人と子供6人も含まれていた。

イ・ミヌ記者

ソース:時事ジャーナル(韓国語) 7000人余りの怨霊はどこに...帰ってこられない帰国船、浮島丸
http://www.sisapress.com/journal/article/156517