1:2015/12/21(月) 22:45:25.77 ID:
▲権禹相(クォン・ウソン)命理学者。歴史小説家

百済の東城王の死で王位についた武寧王は蓋鹵王の息子で困支(昆支?)の養子である。462年、倭地にある奈良百済に行く途中、各羅島で生まれ名前は隆だ。生後、ずっと奈良百済で成長したので日本語でシマ(島)または、サマと呼んだ。そのため、斯麻王とも言う。ここで私たちは中国大陸と韓半島の他に倭地にもう一つの百済があったことが分かる。それが奈良百済だ。

奈良百済は近肖古王の時、建国されたが当時、近肖古王は大陸百済、韓半島百済、倭地の奈良百済の三地域を統治した大帝国の皇帝だった。大陸と韓半島は距離が近いが、倭地は大陸からの距離が遠く、当時は海上交通が発達していない時代で倭の奈良百済を自治的に統治する王を置いたがこれを天皇と呼び総督の様なものだった。

サマは生まれるとすぐ生母とともに大陸百済に帰ったが、非常に政状不安で奈良百済にいる困支のもとに再び送られた。このように百済王室が王子を自由に奈良百済に送ったり連れてきたりしたことは、奈良百済が百済の支配する領土だったためだ。

百済は王子だけでなく、百済の文物を倭の奈良百済に伝えるために百済住民を大挙移住させたが403年(応神14年)2月、百済の縫衣工女が奈良百済に渡り、これが日本列島で衣縫の元祖だ。工女が一人で行ったのではなく大移住集団の一員として行ったのだ。

このように百済の大移住集団は日本列島全域120カ余りの県に散って暮らし百済の文物を伝えた。当時、倭は衣服もない新天地の島で、このような先進文化を持った百済の大民族集団が移住した事実は、百済が日本列島を開拓し、さらには日本列島全域を建設したことを立証するものだ。

文字もなく衣服もない原始生活をする原住民世界に文字と各種の技術や馬など高度な先進文化を持った百済の大移住集団が日本列島に上陸したら、当然、この集団から統治者である王や天皇が出なければならない。従って倭の奈良百済・応神天皇も百済住民大移住集団から出た天皇であり、同時に奈良百済初の天皇だった。

475年、高句麗の攻撃で百済の都城が崩れ蓋鹵王が捕えられて死ぬ時、蓋鹵王の王子たちはみな死んだが、サマ(島)は倭の奈良百済にいたので死を免れ王位に上がることができた。(中略:百済の歴史)

倭地の奈良百済は周囲の小王国と戦って領土を拡張しながら日本国建設の土台を整えていった。この時、奈良百済の領土は四国島と向き合う本州の凸のように出っ張った奈良県が中心だった。

ソース:亀尾日報(韓国語) 権禹相コラム‐日本衣縫援助は百済人
http://www.gmilbo.net/news/article.html?no=33862